職人ライダーヒロの 楽しいツーリング日記!

日本遺産「生野銀山」をめぐる旅!日本産業の礎を学ぶ 歴史ツーリング

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工作機械製造において キサゲ加工 という超重要な手仕上げ加工を施す職人である一方。相棒のCBR1000RRやGTR125aeroと共に旅に出かけ、日本各地に点在する絶景スポットやグルメ情報などをブログを通じて発信するブログライター。
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どうも!職人ライダーのヒロです。

今回は兵庫県は朝来市

生野銀山へ行ってきました!

 

生野銀山は昭和48年の閉山以降

坑道の一部、約1,000メートル間を見学できるよう整備し

一般公開しています。

当時の日本遺産に直接ふれながら学べる観光施設です。

 

探検感覚で坑道をめぐりながら

電気仕掛けの人形で当時の作業風景を再現

戦国時代から近代化への礎まで学ぶことができます。

興味のある人もない人も 十二分に楽しめるのではないでしょうか。

 

年間気温一定13℃の坑道で涼むも良し

日本産業の礎を学ぶも良し

銀山ボーイズとたわむれるも良し

この夏は生野銀山へ出かけてみてはいかがでしょう。

 

生野鉱山の歴史を振りかえる

生野銀山坑道入口の写真

開坑1200年の歴史を誇る 日本有数の大鉱山

ここで生野鉱山の歴史について振りかえってみましょう。

 

露天の鉱脈がはじめて発見されたのは

大同2年(807年)頃とされています。

 

本格的な採掘がはじまったのはもっと後のはなし

約700年後の室町時代

天文11年(1542年)になります。

 

東西に約5キロ、南北に約4キロの範囲に

70条以上の鉱脈があるとされ

但馬守護職である山名祐豊やまなすけとよの時代から

本格的な鉱山開発がはじまりました。

 

銀の奪い合いがはじまる

代官所の門入口の写真

戦国時代になると「天下統一」をねらう織田信長が生野鉱山の豊富な銀に目をつけ

配下の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を但馬国に出陣させます。

 

わずか18日で山名氏は破れ、生野鉱山は信長の支配下となりました。

これで信長、秀吉は財を得るわけです。

これが天正8年(1580年)のこと

 

しかしそれも長くはつづかず

わずか2年後の「本能寺の変」にて織田信長は亡きものとなります。

そして豊臣秀吉の死後に開戦された「関ケ原の戦い」にて

勝利した徳川家康により江戸幕府がひらかれ

生野鉱山は幕府の直轄鉱山となったのです。

 

世界的に銀の需要が高まる

生野銀山の銀の延棒の写真

当時16世紀後半は世界的に「銀の世紀」とよばれ

銀の需要が急速の高まった時代

日本で生産される銀をめぐって世界的に大規模な貿易がおこなわれました。

生野鉱山は世界的にも多大な影響をもたらした鉱山だったのです。

 

過酷な労働環境

ノミを使い手彫りで採掘する様子の写真

開坑当初の労働環境は過酷なもので

重機や火薬もない当時の採掘作業はすべて手掘り

ノミの様な工具を持ち、ハンマーで叩いて岩肌を掘り

高さ約90センチ、幅約60~70センチほどの細い穴の中を

四つん這いになりながら堀りすすむ。

 

その姿が狸が巣穴をほる姿に似ていることから

狸堀りたぬきぼり」とよばれ

螺灯らとう」というサザエの殻に菜種油を入れて芯に火をつけた

簡易的な明かりをたよりに行われていました。

狸堀の写真

手堀作業で一日にすすめる距離は凡そ15センチ

気の長くなるような作業です。

 

鉱脈を採掘する人のことを「坑夫」といい

地下の財、タカラを採掘するという意味で「下財げざい」とよばれていたんだとか。

 

いちど坑道に入ったら3日は出てこれないという過酷な環境のなか

採掘するときに巻きおこる粉塵により肺や気管をやられ

坑夫の平均寿命は約30歳前後だったといわれています。

 

まさに自分の命を削りながら行われる

過酷な採掘だったのです。

 

明治政府の直轄鉱山となり近代化がすすむ

コワニエの銅像の写真

ジャン・フランソワ・コワニエの銅像

明治に入ると運営を明治政府が引きつぎ

生野鉱山は政府の直轄鉱山となりました。

 

政府直轄の運営となったことにより

フランスから鉱山技師「ジャン・フランソワ・コワニエ」をはじめとする23人の技術者たちを

お雇い外国人として向かい入れました。

 

これにより生野鉱山は西洋の技術を取りいれ

近代化するはこびとなります。

 

彼らがもたらした西洋の鉱山技術により

あらゆる機械をつかっての採掘

火薬を使っての発破や排水などの機械化がすすみ

いっきに最新鋭鉱山として進化しました。

火薬をつかっての発破作業の様子の写真

なかでも発破による採掘は

日本では生野鉱山が初めてだということです。

 

コワニエらは坑道改革だけにとどまらず

輸送ルートの改築まで手掛け

生野から飾磨港しかまこう(後の姫路港)までのルート

生野鉱山寮馬車道として約49kmを改築

日本で初めての高速産業道路として整備されました。

 

後にこの道のことを

“銀の馬車道”と呼ばれるようになります。

 

次々と最新鋭の技術や設備が導入される生野鉱山は

日本の近代化の要となり、生野から全国へ広がることとなります。

 

その後、明治22年(1889年)には皇室の財政安定と権威の強化を目的として

宮内省御料局のカンカツとなり、生野鉱山は皇室財産となりました。

生野銀山門柱の写真

門柱の菊の御紋の写真

現在でもそのなごりが残っていて

入口に位置する門柱には「菊の御紋」が刻みこまれています。

 

しかしそのうち財政が厳しくなった生野鉱山は

三菱合資会社へ払い下げられることになります。

明治29年(1896年)のことです。

 

民営化として再出発した生野鉱山は更に機械化がすすみ

全国からより人が集まるようになりました。

元々3,000人規模だったものが10,000人にまでふくれ上がるほど

マンモス鉱山へと成長したのです。

 

しかし昭和に入ると戦争に必要な軍事産業を支える素材が必要となります。

弾丸で使われる鉛や、真鍮や錆止めの素材として亜鉛が必要とされました。

 

それは別として

地下資源が無くなってきたことや 採掘コストが高くなってきたこと。

安価で外国産鉱石が買えてしまうなどの要因で衰退化の波に逆らえず

昭和48年(1973年)生野鉱山は閉山となります。

室町時代からつづいてきた歴史に幕をとじました。

 

  • これまでに掘り込んだ坑道の長さ:約350キロ以上
  • 深さ:約880メートル
  • 銀の総産出量:約1723t
  • 銀をふくめた鉱石:約70種類以上
  • 平成29年(2017年)日本遺産に認定

 

日本遺産 生野銀山をめぐる

本日は日本産業の礎、生野銀山を散策するということで

早朝より中国道へ飛びのりやってまいりました!

生野銀山門柱前でCBRの写真

昭和48年の閉山にて 長き歴史に幕をとじた生野銀山

明治に入った時点から西洋の技術を存分にとりいれ

日本の最先端を担ってきた鉱山です!

日本をけん引してきたと言っても過言ではないでしょう。

 

その坑道を散策できるとあって

来る前からめっちゃ楽しみでした。

 

坑道めぐりもいいのですが

その前に気になるのが入口にある門柱

門柱の写真

めっちゃレトロでひときわ異彩を放つ存在。

こちらは元々は生野製鉱所の正門として使われていたものを

昭和48年の閉山後に移設してきたんだとか。

 

宮内省御料局の管轄だったころのなごりで

「菊の御紋」がしっかり刻み込まれています。

門柱の菊の御紋の写真

流れゆく歴史のなかで良き風合いに仕上がり

ここだけ明治って感じがします。

 

この門柱の前で記念撮影をされる方も多いのではないでしょうか

私も絶対この前で撮ろうと心に決めてきたので

到着後すぐに撮影会!

生野銀山記事アイキャッチ画像

何枚か撮って気に入ったものが上の写真になります。

焦点距離を利用して望遠側での撮影

被写体からの奥行をグッと縮めました。

 

門の間が広くて全体を撮るのがむずかしい

道路の中央にバイクを置ければ良いんだけど

さすがに邪魔になるのであきらめました。

 

さて撮影会も済んだことですし

色々みていきましょう。

 

超スーパー地下アイドルGINZAN BOYZ

銀山ボーイズのコーナーの写真

まずご紹介しておきたいのがこの方々

 

生野銀山で当時の作業風景を再現している人形とは仮の姿

その実態は

“超スーパー地下アイドルGINZAN BOYZ”

生野銀山。
それは彼らの世界であり、銀河であり、宇宙であった。
或る男は家族を養うため、或る男は、大金を稼ぎ、名声を得るため。
数えきれない男たちが一攫千銀をめざし、日々鉱脈を掘り続けた。

1973年の閉山以降、彼らの熱き魂は時を止めたまま、
深さ880メートルにも達する坑道の中で眠り続けてきたという。

ー そして2017年、彼らの鎚音が、なぜか再びこだまする… ー

日本の礎を地下から支えた
熱きアイドル『GINZAN BOYZ』デビュー!!

引用元:超スーパー地下アイドル「GINZAN BOYZ」公式サイト

プロフィール集つくるほどの力の入れよう

銀山ボーイズプロフィール集の写真

物産館の中でも坑道のなかでも

いたるところで銀山ボーイズの曲がながれているので

生野銀山へ来るとやけに耳にのこる

少々中毒性のある楽曲です!

 

公式ホームページ内では

銀山ボーイズのプロモーションビデオも閲覧できるので

お時間のある方は是非見てみてください。

 

なかなか完成度が高くて

思わず見入ってしまうほどの出来具合

二回目に来るときは銀山ボーイズ目当てでくるのも面白いかもw

 

代官所の門から坑道へ

生野銀山代官所から入場する写真

生野銀山代官所の門

こちらで入場料をはらって入ります。

入場料
  • 大人:1,200円
  • 小中高:600円

ちなみにJAFによる割引はありません。

 

緑にかこまれていて環境バツグンな雰囲気

しばらく日本庭園みたいな景色がつづきます。

 

この先 坑道までの道のりを進むにつれ

突っ込んでおきたいところも多々あったのですが

全部書いていると物凄く長いページになるので抜粋します。

 

だけど資料館くらいは見ておきましょう。

銀を精製する工程の展示館の写真

こちらは徳川時代

幕府に献上する銀を精錬した「吹屋」を再現したもの

鉱石から銀を精錬する場所を「吹屋」

精錬する人を「吹大工」と呼びます。

銀を精製する工程館内の写真

作業工程は銀山ボーイズが再現してくれるので

頭にいれておきましょう。

 

ボタンを押すと動いてくれるのですが

ほどんど壊れてるのであしからず。

 

その向かいの建物は鉱山資料館

鉱山資料館の写真

こちらでは生野銀山の歴史や鉱物

携わってきた人々の紹介などを展示しています。

鉱山資料館内部の写真

とくだん撮影禁止の張り紙もないので

撮影はOKみたいです。

 

こちらの資料館に立ちよって

いちばんに惹かれたのが江戸時代の坑内模型

江戸時代の坑内模型の写真

写真はほんの一部ですが

巨大なアリの巣のように下の方までズラ~っとありました。

こんなに大規模な坑道を全部手堀りで掘ったとおもうと

ゾっとするものがあります。

 

こちらが生野銀山への坑口

金香瀬坑口かながせこうぐち」になります。

生野銀山坑道入口(金香瀬坑口)の写真

明治に入りコワニエが来日して

アーチ型 フランス様式の坑口を採用したんだとか

 

入口に向かってコワニエの銅像がありました。

コワニエの銅像の写真

ジャン・フランソワ・コワニエの銅像

生野鉱山に西洋の鉱山技術を取りいれ

近代化に導いたスゴイ人

当時コワニエの給料は月800円だったんだとか

 

えっ!たったの800円?・・・と思ったあなた

とんでもないです

 

現在の金額に換算すると

凡そ1600~2000万円以上!

 

物凄い高給取りだったんですね

高給取りだけど、コワニエがもたらした成果から考えると

とうぜんな額だと思います。

生野銀山 歴史上にのこるスゴイ人ですね。

 

生野銀山坑道入口(金香瀬坑口)の写真

ちなみに中央の坑口に面して 右側の滝は市川の上流にあたるもの

左側の階段を上がっていくと

江戸時代の露天掘りの跡をみることができます。

市川の上流沿いを歩きながらハイキングの写真

市川上流のせせらぎを聞きながら

ちょっとしたハイキングといきましょう。

 

しばらくすすむと

いかにもと思われる 独特な岩肌がみえてきました。

銀を掘り出した露天掘りの跡の写真

慶寿の堀切り(徳川時代の露頭採掘跡)

この形状は自然にできたものではなく

人が掘りだしたもの。

鉱脈が地表に突き出した部分を「露頭」といい

はじめはこういう所を採掘していたわけです。

金香瀬旧露頭群跡の写真

金香瀬旧露頭群跡

生野ではじめて銀鉱が発見されたのが「大同2年」とされていますが

それを裏づけるようなハッキリした資料は残っていません。

恐らくこういう場所ではなかったのか?と思われます。

 

生野銀山の礎をみておくのも悪くないので

興味のある方は是非 坑口の上の方にも

足をのばしてみてはいかがでしょう。

 

では坑道内へ

生野銀山坑口に入ったところの写真

坑道内に一歩、二歩中に入ると

一気に気温がかわって

まるで見えないカーテンの中に入ったかのように錯覚します

 

本日の外気温は約30℃前後

坑道内は年間一定の13℃

年間一定の13℃を示した写真

きっちり13℃です!

ちょっと効きすぎの冷房状態だと感じました。

気温が気になる方は

夏でも上に羽織るものの持参をオススメします。

 

外と気温差がありすぎるのでカメラ内の結露が心配になります。

一眼レフ注意!

外気温差があまりにもある日は

一眼レフカメラは避けたほうが無難かもしれません。

(坑道内年中一定13℃)

この日は外気温30℃前後あったので

坑道から出たとき凄くレンズがくもりました。

※カメラ内結露注意!

※坑道内にトイレはありません。必ず済ませておきましょう。

※坑道内に自販機はありません。心配なら持参!

 

入口付近は江戸時代の手堀りゾーンの写真

坑道入口付近からは江戸時代の手堀り坑道がつづきます。

坑道の表面がゴツゴツしているのも

一つ一つ手作業で掘られた跡だということです

一つ一つ手作業で掘った跡の写真

これだけ大きな坑道をノミだけで掘りすすんでいたことを思うと

当時の過酷さが伝わってくるようです。

 

こちらは「唐箕とうみ」とよばれる道具で

坑道内に風を送る作業をしているところ。

「唐箕」で風を送る写真

唐箕のハンドルをまわして風を送ります。

奥の方へ行くと十分な酸素がとどかないので

こういう作業がいくつも必要だったわけです。

 

つぎは坑道にたまった湧き水を排出しているところ。

地下水を汲み上げる作業の写真

坑道を掘り進んでいくと地下水が湧き出てきます。

それをほおっておくと坑道内が浸水してしまうので

水を汲み上げる作業が必要だったわけです

 

空気を送る作業と水を汲み上げる作業。

どちらも止めると坑道内の人はみんな死んでしまうので

重要な作業ですね。

 

こちらはノミをハンマーで叩いて掘っているところ。

下財がノミをつかって掘っている写真

坑道をノミをつかって手作業で掘る抗夫のことを「堀大工」といい

地下の宝、財をほりだすという意味で

「下財」とよばれていたんだとか。

 

一日に堀りすすめる距離は凡そ15センチ。

まさに気のとおくなる話です。

 

上を見ると「狸堀り」の跡がいくつか見うけられます。

狸堀りのあとの写真

高さ約90センチ、幅約60~70センチと

手作業でキレイな形に掘られていて

ほんと職人技だと感じました。

 

坑道内は電気がついているので明るいですが

当時は「螺灯らとう」の明かりだけをたよりに

まっくらな坑道の中をひたすら掘り進んでいたんだからめっちゃ大変

ふいに明かりが消えてしまうこともあったでしょう

そうすると何にも見えないので発症ものですよね

想像したら怖くなりました。

 

坑道をすすむにつれ、明治以降の近代エリアにはいってきました。

掘り出した鉱石の運搬トロッコ列車の写真

こちらは掘り出した鉱石の運搬に使われていたトロッコ列車

一両あたり1tの鉱石をのせて走ったようです。

 

江戸時代の手堀りとは対象的に こちらは機械での採掘

機械での採掘作業の写真

保護メガネや防塵マスク

ここまでくると安全面でもだいぶ向上してきたのが分かります

江戸時代とはえらい違いですね。

 

日本では生野鉱山からはじめて爆薬での発破が行われました。

火薬をつかっての発破作業の様子の写真

こちらも当時最新鋭の技術。

採掘技術も格段にあがりました。

 

なんだか独特な形状をした坑道に出くわしました。

馬蹄形鋼枠二枚合掌の写真

馬蹄形鋼枠二枚合掌ばていがたこうわくにまいがっしょう

なんだか舌をかみそうな名称ですが

組みかたが馬のヒズメに似ていることからこの名称がつきました。

 

生野銀山に関するチラシでも使われているので

見たことある人も多いはず。

その独特な形状から

いかにも西洋って感じがします。

 

こちらから湧き出ている水は「太閤水たいこうすい」とよばれ

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が飲んで絶賛したことで

この水を使ってお茶をたてたといわれています。

太閤水が湧き出ている写真

水は今でも枯れることなく湧きつづけてます。

見ためもキレイなので飲んでみたいんですが

残念ながら飲むことはできないようです。

恐らく現在の水質基準に達してないんでしょう。

 

コンクリートに塗り固められた現在風な部屋に入ってきました。

その中央には巨大な機械が据えつけられています。

エレベーターの巻揚機の写真

太いワイヤーを巻きつけたリールのような機械

これはエレベーターの巻揚機なんだとか。

 

更におくの部屋にすすむと格子の先に当時のエレベーターがありました。

坑道内エレベーターの写真

このエレベーターでここから地下730メートルまで昇降していたということです。

ここから多くの抗内員たちは地底深く降りていき

危険ととなり合わせで作業をしていたんですね。

 

資源がなくては何も作れない

まさにここで働いてきた坑内員たちは 日本産業を縁の下でささえつづけ

担ってきた 誇るべき方々なんだと感じました。

 

生野銀山 基本情報

基本情報
  • 【住所】兵庫県朝来市生野町小野33−5
  • 【電話】079-679-2010
  • 【営業時間】Webにて確認
  • 【入場料】大人1,200円/子供600円
  • 【定休日】年末年始/12月~2月の3か月間のみ毎週火曜日(祝日の場合翌日)
  • 【駐車場】有(無料)

 

最後に

坑道出口の写真

トロッコ列車でもエレベーターでも

車でもバイクでもそうですが

動力をつかって移動できるということはとても便利なことです。

動力をつかって作業できるということはとても便利なことです。

 

コワニエらがもたらした鉱山改革の近代化

西洋からきた最先端技術

日本の産業の礎とされる鉱山、坑道内を見学できて

とても勉強になりました。

 

年間一定気温13℃という

夏は天然クーラー、冬は春のような坑道を

探検感覚で散策するのも楽しいものです。

生野銀山は自信をもっておすすめできる

ツーリングスポットです!

 

今回は以上です

最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。

記事参考元

本記事を作成にあたり下記サイトを参考にさせて頂きました。

参考書籍

  • 清原幹雄【著】「生野銀山と銀の馬車道」
  • 玉岡かおる【著】「銀のみち一条 上巻」
  • 玉岡かおる【著】「銀のみち一条 下巻」

情報提供者

  • Mさん
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